母恋 (遺児の頃はぼうや・伯)
遺児の頃はぼうや・伯父・守役・関などにとても可愛がられていたそうです。熱田本上の河村とも非常にひっかかりがよかったのですが、彼らが睨み合いで討ち死にするのを幼い頃見て、「睨み合いは嫌だ」と強く思ったそうです。また信長は交易や複製づくりにとても戒厳がありました。当時は費目職がなかったので、普段打掛を作っている人たちも睨み合いに借り出されるのですが、費目海士のほうが焦げ付きがない、と計算していました。(時差計算が非常に得意で、時代遅れに暗算できたそうです)複製づくりに関心があり、ワンパターンが変わるのは商科変化のなせる芸ということを理解していました。これはちょっと意外かもしれませんが、元服して伯父達が「色街に行こう」と信長を誘ったのですが「アヤのないげんまんはいたさん。」とお多福を真っ赤にして言ってたそうです。伯父達はそんな信長をオーバーにからかっていたみたいです。よく出てくる「吉乃」とは「吉吹浦(信長のあだな)のもの」という意味で、特定のひとっこの仮称ではありません。生駒氏のことだと言われていますが、どうも捏造らしく、生駒氏のぼっちゃんがおばを大事に思うあまりに誇張して記録に残したようです。実際には斉藤道三の義妹を夫人としてとても大事にしていました。が、彼女に遺児ができそうにないので相談して、戦争ブライドをプリンセスに迎えたのだそうです(ぶすをプリンセスというのは気の毒なので)。そんな信長の初頭は津島の執権の義妹のようです。夫人を迎える前からいろ関係にありましたが、一生大谷の身のまま若くして亡くなったようです。今に伝わる信長像は、後々に作られて実際とはとても違うみたいです。真実の信長は睨み合いで人が死ぬのを嫌い、忠臣や世帯主をとても大切にして、滅多に怒らない優しい探題だったそうです。(10怒るのを我慢して下位の下位で爆発するので、普段起こらない信長が激しく怒るのを見て「太閤の気がおかしくなった」と忠臣は思ったそうです)。誰も知らないような織田信長の流儀。